(田中館愛橘会編:田中館愛橘博士歌集より) |
田中館愛橘博士のふるさとは、陸奥国二ノ戸郡福岡町。現在の岩手県二戸市(にのへし)である。博士の誕生は安政3年(1856)であり、当時はまだ侍の時代であった。 博士は勉学のために明治3年(1870)盛岡に出る。その時の歌。 さらに明治5年(1872)東京へ出る。博士16歳の歌。 博士の父稲蔵はこの時、家や土地など全てを売り払い、一家を連れて東京に出た。つまり、故郷を捨てる覚悟で東京に移った。愛橘もまた不退転の決意で故郷を捨てた。それだけに、博士にとってふるさとは特別なものであったろう。 博士は苦学の末、東大へ入学を果たし、さらに明治21年(1888)イギリスのグラスゴー大学へ留学している。博士32歳。 グラスゴーでふと聞いた鳥の声。ああ、これは昔どこかで聞いた。そうだ。まさしく故郷のほととぎすだ。というような意味であろうか。遠く海外の地にあって、愛橘はますます故郷への思いを強めた。故郷ははなれてみて初めてそのありがたみを知るものだ。 博士がふるさと歌った歌を探していて、おもしろいことに気付いた。「ふるさと」という言葉が綴られた歌は、海外に行った時の方が多いようだ。例えばシベリア鉄道で一週間も汽車に揺られて、あるいはスイスの美しい山に登って。それらの風景に感動しながらも、心のどこかで、「ふるさと」を思う。いや、海外だからこそ、故郷の美しさが鮮やかに思えるのかもしれない。 (大正8年−1919−インターラーケンにて。博士62歳) (昭和7年−1932−シベリアの車中より。博士76歳) 故郷に帰っていた博士が、いよいよ東京へ出立するという日の朝詠んだという。昭和21年(1946)11月10日。博士90歳。 ふるさとという言葉ばかりではなく、馬淵川、折爪岳、呑香(神社)、など二戸に関わる言葉の歌も多い。だが、ふるさとは山や川だけではない。必ずのように「あじきばっと、かせろ」と口にした好物もまたふるさとであり、あたたかく博士を迎えた人々もまた故郷だったに違いない。 注1:「あじきばっと」→小豆(あずき)はっと。麺を煮た物にあずきを絡めた郷土料理。 |