二戸にある博士の歌碑など1
九戸城跡にある歌碑

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昭和10年(1935)国指定の遺跡として指定された「九戸城跡」は二戸市の ほぼ中央の高台にある。
九戸城は明応年間(1493〜)頃に、九戸光政によって築城されたと思われ るという。今から500年も前にお城があったことになるが、一体どんな 城だったのだろう。
それからほぼ100年経った天正19年(1591)。有名な九戸政実の乱で 九戸城は落城してしまった。


後に城は修復され「福岡城」となり、南部信直が盛岡に 城を移す(慶長4年:1599)まで南部の中心となる。
寛永12年(1675)に「福岡城」は取り壊される。
現在の城址は綺麗に整備され市民の憩いの場となっている。今ではわずかに お堀の跡が昔を偲ばせるばかりだ。
田中舘愛橘博士の歌碑は、九戸城跡の一角にある。(上の写真) 折爪岳を背に、今は影さえ無い本丸を見つめるかのように、その碑は立っている。

碑には、漢字とローマ字とでこう書かれている。
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山河天険護狐城
支得豊家二萬兵
地接強藩揺為揺
武凌上国足争勇
醜僧誤事生前恨
烈士殉君身後名
今日英魂有誰弔
故墟風雨老狐啼
  
(山河の 護る 姿の 九戸城)
(二万の 兵お 支え 得て)
(はるか 隣も 手お のばし)
(武勇 争える かい も なく)
(事 お 誤る 醜法師 !)
(君 もろともに 散る 花の)
(名 のみ 残せる ますらお お誰か 弔う ?)(城墟の 夜半の 嵐に 古狐 なく)

Yama−Kawa no mamoru
Sugata no Kunohezyo^
nimanno Hei o sasaeete
haruka tonari mo
Te o nobasi
Buyu^ kisoeru Kai mo naku
Koto o aramaru Sikoho^si!
Kimi morotomoni tiru Hana no
Na nomi nokoseru Masurao o tare ka tomurau?
Siro−Ato no Yowa no Arasi ni
Huru−Kitune naku.
 
昭和20年9月24日 書:小保内君にささぐ(小保内樺之介氏の為に書かれた書を刻んだもの)


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