愛橘のルーツと会補社
愛橘博士の家は代々南部藩の兵法師範をつとめたという。愛橘はつまり「侍の子」だったのである。古くは浄法寺大清水にあって50石、そして鹿角に移り34石、後福岡で兵法指南の家柄だった。博士が12歳の時明治維新となり「侍の時代」は終わるが、博士も15歳まではちょんまげを結っていたという。 

博士はしばしば「家族に恵まれなかった」と表現される。母喜勢を7歳で亡くし、3人の母を持った。父稲蔵は博士が26歳の時切腹で命を絶つ。37歳で本宿キヨと結婚するが、翌年、娘美稲を産んで亡くなっている。これらの事実は確かにそう表されても当然かもしれない。
 だが、博士はこうした身内の悲しみなど殆ど感じさせぬ凄まじい生き方をしている。その原点は武士道にあったろうし、「滅私報国」という思想があったのではないかと私は思う。

 侍は、その存在そのものが「国を護る」ためのものである。今なら軍隊、自衛隊と言って良い「侍」が、その命を懸けるのはただ「お国のため」。愛橘は幼い頃から厳しく武芸を仕込まれたが、それは「国のために命をすてる」事の訓練であった。
 長じて、物理学を一生の道と定めるとき、愛橘は大いに迷い父に相談している。「これまでは国家を治める道を選ぼうと思っていたが、理科の根本たる物理学を修めて、おおいに我が国の弱い所を補いたいのです。」父は「家名の事など気にするな。物理学で世界人間社会の役に立てればそれでよい。」と答え、決心を促したという。

博士を考える上で、もう一つ忘れてはいけないのが、相馬大作(下斗米秀之進)の「実用流」の思想と、その延長上にあると言って良い「会補社」である。侍の時代があまりに長く続き、もはや実践の役に立たない武士ばかりだ。これではいかん。と、「実用流」を学び、南部福岡で、本当の武士を育てた、相馬大作。彼が津軽候を襲撃し、追われたのち、その道場を継いだのが曾祖父彦右衛門であった。

また、「会補社」は北の松下村塾とも言われ、幕末にあって、尊皇思想も理解する集団であった。愛橘の父稲蔵はこの会補社の社長をつとめていた。会補社の中心人物の一人小保内定身は、愛橘のおじ(母の兄)である。  



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