明治15年7月10日、愛橘博士は無事東京大学を卒業。翌日、準助教授となる。 翌16年夏、帰郷し父に「当分結婚せずに学修に専念したい。」と打ち明け、父の許しを得る。同年12月27日、助教授に昇進するが、わずかその20日ほど前に突然父君が亡くなってしまう(12月5日)。 明治20年からは、日本全域の地磁気を測量を行う。同21年1月、博士は英国及びドイツへの留学を命じられる。留学を終えて帰国したのは、同24年7月4日。そして、7月22日に、理科大学教授に任じられる。 |
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左がその辞令の内容。前日の6日には内閣から依願免本官の辞令が残っている。 我国の はたかかへみと えかきける 血汐の色そ 君か真心 |
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左はグラスゴー大学留学時代の師、ケルビン卿(ウイリアム・タムソン)の写真。博士はグラスゴー大学でケルビン卿について物理学を学ぶ。 ちなみに、ケルビン卿は英国の大科学者であり、彼が84歳で亡くなったときは、国葬であった。その遺体は、ウエストミンスター寺院の、ニュートンとダーウィンの墓に並んで埋葬された。 博士はケルビン卿に物理学を学ぶのみならず、人間的にも大変な影響をうけたという。 |
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上はケルビン卿の家。愛橘はここに一年ほど住み、英国紳士の気風までも学んだという。右は、後に住んだというアパート。 |
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ケルビン卿:(1824〜1907)アイルランド生まれ。物理学者。 本名ウイリアム・トムソン(Thomason,William)電気伝導と熱伝導の研究。ヒステリシス現象の発見。熱力学の第二法則の発見。熱力学の研究。カルノーの研究を評価、絶対温度の導入など。海底電線の敷設に貢献。 ケンブリッジ大学卒業後グラスゴー大学教授(1846)。イギリスの大学で初の物理学実験室をつくる。866年ナイトの爵位を得る。温度の単位名(ケルビン)。 |
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