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■ああ、パンフレット。 思えばはるか明治や大正時代の話である。言い回しひとつとってもどう言うべきなのか混乱していた。ましてや専門的な事、当時の時代をふまえてとなれば、なおさらだった。 |
「もちろん。道路は舗装などされていないから、大事な機械はゆっくりとした牛に運ばせるのが良い。といった記述もあったよ。 「博士はどんな人だったんですか?」「うん。それは正直良くわからない。特に若い頃は相当短気で雷を落としたとか、やたら声がでかかった。というような事は書いてあるが、殆どは晩年の博士の事が多くて、かなり美化されている部分もあるようだ。だから、本当の博士の顔が見えないんだ。」 |
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こんなやりとりが何度も続いた。ある者は博士に関する本を読み、またある者は資料館へ行きゆかりの品を見たりしたという。 演劇をやる側の人間でさえこれだけ苦しむ。ならば観に来てくれる人たちはもっとわからないだろう。なんとか時代や背景などをわかりやすい形で伝えられないだろうか。 資金に乏しい演劇協会であったから、これまでパンフレットなど一度も作ったことはなかったが、パンフレット形式で博士の冊子を作れたら、少しは理解の助けになるはずだ。 そう考えてはみたものの、20万を越えるだろう印刷費用はない。おそるおそる仲間に相談してみた。誰もが「良いね」と言うものの、予算を聞いて黙り込んだ。そこへ会長が遅れてやって来た。「やろう。今までやったことはないが、協賛広告をもらえば何とかなるだろう。」「広告?誰が集めるんですか?」「まあ、俺と中村かな。あと心当たりをみんなで当たってくれ」意外なほどあっさりと、パンフレットの制作が決定された。 |
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一円でも安く上げようと、校正無しの原稿を制作することにしたり、博士にゆかりのある印刷会社に無理を聞いて戴いた。団員の友人がそこに勤めており、どれだけ助けられたかわからない。ともあれ、こうして30ページ弱のパンフレットが出来ることになった。 ところが、肝心の中村は仕事の他にも入選した他の劇団の脚本の手直しも抱えていて身動きがとれないでいた。そこに救世主のように現れたのが村上良子であった。彼女もまた仕事に多忙を極めていたが、パンフレットを残す事の重要性を誰より理解してくれた。 村上はわずか一週間で中村の原稿をまとめ上げた。そして、このパンフレット原稿はそのまま団員の手引きにもなった。 全員が明治、大正、そして博士のやったことを学んだ。それをどう舞台に生かすのか、あちこちで意見が交わされた。いやおうなしに、全員が愛橘博士に興味を覚え始めていた。 |