直前まで追求し続けた音楽

演劇で大事なことは沢山あるが、中でも音楽の力は大きいというのが中村の口癖であった。彼には愛橘博士の舞台でどうしてもやりたい事があった。
それは、「旭日のサムライ」という、独立した音楽組曲として作曲され、しかも生で演奏をするという贅沢な願いだった。

この犠牲になったのが、沢内みゆき、片野康子、中村桂野という多忙を極めている3人の音楽家たちであった。3人は中村の強引さに押し切られ、分担して作曲をさせられる羽目になった。作曲、演奏する音楽は16曲。

週に一度時間を合わせて集まり、各テーマの編曲や練習を行った。ある日、「作曲していて、気がついたら朝だった」と誰かが言った。すると「そうなのよね、あっという間に朝になってるのよね」と3人。
その会話を聞き、さすがの中村も多いに冷や汗をかいたが、それでも聞こえないフリをし無理を言い続けた。

誰かの曲が出来ると、それに刺激されるように次の曲が出来ていく。音色の組み合わせ方や、演奏の分担について3人がバランスを取っていく。目の前で次第に曲ができあがって行くのはとても感動的であった。だが音楽を追究すればするほど、容赦なく時間は過ぎていった。

本番前夜、3人は徹夜でアレンジし、練習を続けたのだった。それでも納得が出来ずに、本番直前まで練習を重ねてくれた。本当に感謝の言葉もない。

感謝といえば、もう一つ忘れてならないのが、福岡高校音楽部のみなさんの合唱の御協力である。福岡高校OBであると言うだけの理由で厚かましくも「演劇に合唱を!」とお願いに上がった中村であったが、校長先生、音楽部顧問の宮野先生にご理解を戴くことが出来た。

ところが、様々な都合で歌ってもらう曲のデモテープを届ける事が出来たのは、公演のわずか1週間前の事であった。それにも関わらず合唱に取り組んで戴いたばかりか、舞台上での振り付けまでも部員の人達が考えてくれたのだった。全く嬉しい事であった。

さても様々な難関を乗り越えて、いよいよ本番前日を迎えた。とはいえ、これまでに準備ができているのは、言ってみればソフトウエアーの部分であり、舞台装置、映像機器、楽器、音響、照明等ハードウエアの組立はここからが勝負であった。

しかしいざ始めてみると、グランドピアノを舞台下へ設置するだけでも予想以上の苦労と時間が必要だった。作業者の安全第一は言うまでもないが、ピアノは楽器である。その重さの問題以上に、やさしく慎重な作業が要求された。

我々はピアノを乗せられるだけの広さの平台をまず舞台脇に積み上げ、それから10センチ位ずつ慎重に下降させる方法をとった。
わずか1メートル程の高さを下ろすのに実に90分以上も費やし、早くも体力を消耗してしまった。この調子じゃ舞台が出来るのはいつのことだろうか・・。

そんな不安が広がりはじめた頃、他の演劇仲間が一人また一人とやって来た。みな二つ返事で、演奏楽器の借り出し、搬入やら大道具の制作、設営など、てきぱきと進めてくれた。次に照明の位置出しに入り、音響の準備も出来てきた。てんやわんやの大騒ぎではあったが、舞台は少しずつ形になっていった。

あっという間に閉館の時間がやってきた。スケジュールは大幅に狂ったものの、何とか本番には間に合いそうだと中村は笑顔でみなに伝えた。

だが、舞台監督の菅原友枝は厳しい表情のままだった。(彼女は元々他の劇団所属で手伝いに来てくれていた)3日前に中村に泣き込まれ、舞台監督の重責を押しつけられたのだから無理も無かった。


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