■そして、泣き笑い

 ある日会計のTが中村の所へやってきた。Tは中村の顔を見るなり「どうしよう」と言い、ポロポロ涙をこぼした。締めてみれば大幅な赤字になっていた。Tは責任を感じ、途方にくれていた。会長はまだ入院中であり、とても伝えられないと思ったのだろう。

 当初は入場無料での予算だった。しかし、ポスターやパンフレットを作った費用を埋めようと、500円のチケットを販売したことが災いして、会館の使用料が一気に跳ね上がった事。(会館の使用料金は時間と有料(の場合の金額)、無料によって異なるのだ)懸命の宣伝にもかかわらずお客さんを十分に呼ぶことができなかった事が何より悔しいTだった。
 Tの涙はそのまま中村の涙であり、団員の涙でもあった。本当なら自治体が予算をとってやったとしてもおかしくない田中舘博士のことを、わずか数十人の劇団が自力で単独公演する意味を、知ってもらえない悔しさでもあった。

 中村は言った「俺は思う。こんな大赤字を抱えて愛橘の公演をやるなんて、俺達演劇協会にしかできないよ。愛橘博士を自分たちの手で形にできた事は、むしろ俺達の誇りだろ。俺達は儲けや妙なプライドの為に演劇をやっていない。愛橘博士はすごい人。だから舞台にしたかった。それだけで良いじゃないか。わかってくれる人だってきっといるよ。でも、大きな赤字を作ったのは申し訳ない。みんなに謝るし、自分に出来ることはする。」
 Tは言った。「そうね。それが演劇協会らしさかな。まぁ、あの会長や中村さんが居る内はしょうがないか。」あきらめ半分、ため息混じりの言葉ではあったけれど、ようやくTに笑顔がもどった。数十万の赤字は本当に痛かったけれど、みなは仕方ないよと受け入れてくれた。

 公演が終わってしばらくたったころ、会長が無事退院した。ベットの中でひたすら気をもみ、悔しがっていた会長だった。やがてビデオができあがり、そのラベルには全員の集合写真が使われた。
 けれども、会長は写っていない。だからと言って隅っこに窓を付けて会長の顔写真を入れるのもどうかと思った中村は、たった1つだけラベルを作りなおした。
その集合写真にはしっかりと会長も並んでいた。パソコンでの合成写真と言ってしまえばそれまでだが、中村はどうしても一緒の写真を会長に届けたかったのだ。

 それまで町には博士を紹介したパンフレットが無かった事もあり、劇で配布したパンフレットは予想以上に好評であった。そのパンフレットを元に博士に興味を覚えた福岡小学校の女子生徒が研究発表をしてくれた。さらに中央小学校では6年の生徒さん達が寸劇で愛橘を取り上げてくれたりした。

 我々演劇協会が愛橘博士を公演したことで、愛橘博士のことが再認識されたのだ。何よりも子供達が博士に興味を抱いてくれた。たとえそれが、亀よりものろく、ノミほどもわずかな歩みであったとしても、みなが必死で頑張ったことは無駄にならなかったと中村は思った。

長かった愛橘博士のお話はこれでおしまい。


おしまいだったはずのお話に続きが起こった。平成14年8月4日に、子供達を加えて「ミュージカルAikitu(愛橘)」を公演することになった。
平成14年は田中舘博士の没後50年。平成14年にはさまざなイベントが行われる事になった。その一つとして我ら演劇協会「The雲人」にお声がかかったのだ。今我々は公演に向けて準備を開始している。(平成14年4月)
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