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田中館愛橘博士は明治11年(1887)東京大学に入学した。時に22歳。現在の感覚で考えるとずいぶんな年齢と思う人もあるかもしれない。ついでに言うと博士は小学校も出ていないのだ。といって、出来の悪い浪人生だったと早合点してはいけない。博士が子供の頃は(今の義務教育という)学校そのものが無かった。 博士は5歳で「和漢」を学び始めたというから、当時としては進んだ教育を受けていると言える。だが明治維新という大きな時代の変化で、必要とされる教育の中身が大きく変わってしまった。 |
■大学予科 |
大学に入学した博士は、落第をしては大変と寸暇を惜しんで勉強に励んだ。その甲斐あって、A組の一番という試験の結果を得ることができた。 しかし、この無理がたたって、病気になってしまった。これではいけないと、体に良いと聞いた肝油を試した。これをご飯に振りかけ、或いは飲みして、ついに病気を治したという。 しかし、一方では大食の自慢がはやり、甘い物が好きだった博士は、ある汁粉屋で12ヶ月汁粉を平らげたご褒美に之を染め抜いた手ぬぐいを取ってきたと自慢している。だが上には上があるもので、三宅某がタマゴ雑煮を13杯食えると言い、大食い仲間で賭をして食べさせた。12杯目まで食べたところで、「喉まで餅が詰まって、指が届くが、もう一杯食おう」というので、皆が青くなり「もう良い。負けた。13杯食ったと見なす」と止めさせたという。当時はこのような訳の分からない頑張りが流行ったと、後に博士は苦笑している。 |
■愛橘の進路は・・・「法科か理科か、それが問題だ」 |
博士は本科に進むとき大いに悩んだ。当時の東大は官吏養成所的な面もあり、卒業すれば官吏になることも可能だった。元々国元で「人間の目的は己を修め天下を治むるにある、もし世に用いられないときは書いた物を後世に残せ、その為に文を修めよ」と教育されていたので、博士は国家を治める道を学ぶつもりだった。だが、国家を治めるという西洋の修身治国を説いた物が「孟子や孔子の教えに優れる」とは思えない博士だった。 そこまで考えた博士であったが、これまで苦労して学ばせてくれた父のことを考えると、やはり法科に進むべきかと悩んだ。そして、博士は父に手紙を書き率直に相談した。 父からの返事は「自分の信じる道を進め、父母事など気にするな、学問で国に報いるのも立派なことだ」というようなものであった。博士は大いに感動し、いよいよ物理学に進むことを決心する。 愛橘が「数学、星学(天文学)、物理学科志望」として届書を書いた。(当時は、数学、星学、物理学で一学科)。それを見た友人が言った。「浜尾先生がこの届けを見たら、『物理や天文を専修してどうして飯が食えると考えるか!』と心配するぞ。」これにムッと来た博士は「そんなことを僕に言ったら『飯は茶碗と箸で食べます』と答えると言って、その足で届書を提出したという。かくして明治11年9月、東京大学理学部本科一年生となる。 |
■卒業はたったの3分の1! |
明治15年7月10日、愛橘は目出度く理学部を卒業する。その翌日東大の準助教授に任ぜられる。ところで、当時の学生は国の貸費生で寄宿舎に収容されたという。この為か試験は大変に厳しかった。1回不合格を取ると落第、2回の不合格では退学を命じられた。 明治9年、博士が入学した時は90人を超えていたのが、明治15年の卒業時には32名だったという。(法、理、文3学部合計で!) 博士は病気になるほど勉強したというが、まさに「死ぬ気で」勝ち取った卒業である。 |
■東大のニュートン祭は愛橘が創始者 |