愛橘博士は「家族に恵まれなかった。」としばしば表現される。実際博士の一生をたどってみると、博士の胸中はいかばかりであったろうかと思わずにはいられないほど波乱に富んでいる。とりあえず列記する。 |
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1. |
博士の父稲蔵は17才の時15才の小保内喜勢と結婚。翌年愛橘が生まれる。早婚には訳があり、祖父連司が早く亡くなった為、曾祖父彦右衛門が血統を絶やさぬように、結婚を急がせたとせいという。 |
2. |
博士7才。母喜勢が死亡する。翌年(?)二人目の母恵喜(えき)。 |
3. |
博士11才。実の弟洋次郎が死亡。 |
4. |
博士19才。二人目の母恵喜(えき)死亡。父は家族をつれ郷里福岡にもどる。 |
5. |
博士21才の頃(?)、三人目の母喜多(きた)。 |
6. |
博士27才。父稲蔵割腹自殺。 |
7. |
博士36才。家族を東京に呼び同居始まる。 |
8. |
博士37才。博士、本宿キヨ子(19才)と結婚。 |
9. |
博士38才。長女美稲誕生(3月5日) |
10. |
博士38才。妻キヨ子死亡(3月15日) |
11. |
博士38才の頃。弟甲子郎、北海道で行方不明。死亡とみなさる。 |
12. |
博士54才。母喜多(きた)死亡。 |
なかでも、7才で生母を亡くしたこと。悲しくて泣いていたら、「武士は泣くものではない」と叱られた。泣くのを止めようと思ってもどうしても涙がとまらず、人に知られない場所で泣いたという。 さらに驚くのは、父稲蔵が「腹を切って」亡くなるのである。愛橘はこの時東京から、わずか5日間で駆けつけている。(当時は12、3日の旅程) そして、妻キヨ子の死。結婚の幸せは一年ほどで断ち切られる。一人娘美稲を残された愛橘は、そのわずか3ヶ月後には、仕事で北海道を駆け回っている。 愛橘は、しかし、後妻をもらうことはなかった。 |
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後年愛橘は、幼い美稲の手を引き妻の墓参りをする度に、「お母さんは神様になったのだよ」と言い聞かせたという。 大学教授時代、博士は当時ハイカラな自転車で出勤したが、玄関で見送る娘美稲に、何度も何度も振り返っては、大きく手を振ったものだという。 |