ミュージカル「Aikitu」脚本

歌終わって再び照明回り始めストロボ点滅、子供達うわー、きゃーの叫び声、後暗転
第三幕十六場 伴奏音楽15 父と娘
 
(舞台花道、美稲に手を引かれ、愛橘びっこ引きながらゆっくり登場。中央へ。奥舞台には青年時代の愛橘と幼い娘美稲登場。空は神々しいまでの夕焼け。奥舞台 幼い美稲の手を引く愛橘、やがて美稲に向き直り手を握る。何か語りかける様子。(美稲のセリフに動きを重ねる)
美稲 幼い私は、時々父を困らせました。「どうして私にはお母さんがいないの」すると、父は私の手を引いて、母のお墓へつれていきました。私の手を取り、じっと見つめ「みっちゃん。母さんはなぁ。神様さなったんだよ。」とやさしく言うのです。  
けれども、ほんの一瞬父の瞳には悲しみがただよいました。そして、父の手に力がこもり、ぎゅっと握りしめるのです。父のごつごつした手は痛くてたまりません。けれども、なぜか「手が痛い」とは言えませんでした。「母さんは神様」そう、私が言うと、父はニッコリと微笑み、何度も何度もうなづきました。私はその父の笑顔が一番大好きでした。(奥舞台F・O)
いつもいつも駆け回っていた父、休む間もなく仕事を続ける父でした。勲章も沢山もらいました。何度も外国へでかけました。沢山の科学者を育てた父でした。
世間のみなさんは父を立派な人だと申します。けれど私にとってはただの父親。もの心つくまでは、家に居ない父を恨んだこともありました。
けれど、やさしい父でした。自転車で大学へ出勤する時は見えなくなるまで手を振ってくれる父。外国に行けば、ローマ字で「みーちゃん」と書き始まる、綺麗な「絵はがき」を何枚も何枚も、送ってくれました。
 
昭和27年(1952)5月21日、愛橘は母キヨ子のもとへ旅立ちました。95才7ヶ月の生涯でした。常に目の前に百万の敵が居ると思え。そういって必死で生き抜いて来た父でした。
愛橘は死ぬまで侍だった。父愛橘は「日本の旭日(あさひ)になったサムライ」だった。私はそう信じ、心から誇りに思います。
 
私が一番幸せだった時。それは私のピアノに父がフルートを吹き、一緒に演奏をしてくれる時でした。二人で心を合わせて弾いたあの曲が、私は今でも忘れられません。
{音楽14} 敬慕(アベマリア)(奥舞台F・I そこには子供達立っている。曲と共に舞台前面に)

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