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田中舘博士の業績を、あえて一言でいうと、『明治初期に起こった、「日本の近代化」を、科学者として支え続け、今日の日本繁栄の基礎を築き、日本の独立を助けた』に尽きると私は思う。 | |||
時代背景 |
「日本の独立」と言えば奇異に感じる方もいるかもしれない。 だが、かつての日本は、西洋列強やアメリカに侵略される危機があった。長い間鎖国をしていた日本は、西洋の事情にも疎く、科学技術や工業の発展に、大きく立ち後れていた。 一方、西洋では産業革命によって、大きく発展をし、繁栄を求め続けて行った。蒸気船の発明などによって、世界は一気に狭くなった。西洋列強は競って各地の侵略をすすめ、ついに東洋へと到達する。既に清国(中国)はイギリスによって侵略されていた。日本は危機にさらされていたし、ロシアの脅威も大きかった。 明治維新後、「弱小国、後進国という現実」を突きつけられた日本は、必死で海外に追いつき、追い越さねばならなかった。そうしなければ日本は無くなってしまう可能性があった。 だが、工業も、科学技術も無かった日本が、近代化に失敗すれば、どこかの属国としてしか生きていく道はなかった。田中舘愛橘はそんな時代に生きている。 当時の日本は、国としての力を必死で蓄えなければならなかった。工業化、近代化も急務であった。だが、開国後わずか30数年で、日本はロシアと命運をかけた戦いをする事になる。弱小とみられていた日本は、なんとか日露戦争に勝利する。 ここに至って、日本は列強各国に認められる国となっていくが、その近代化を、第一線で支え、人を育て、発展させる基礎を築いた一人が、田中舘博士である。 博士は、東京大学の第一回目の卒業生。つまり、日本がやっと一人歩きを始めた頃、その「第一歩を踏んだのが田中舘愛橘博士」である。日本は世界と対等に渡り合えなければならない。いつまでも外国人教師に頼っていてはならない。博士は必死で教え、日本の学者を育てた。 まぎれもなく、日本の物理学のスタートは、愛橘博士からはじまっている。博士は、一生を国家の発展のために捧げた。 |
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業績1 | 黎明期だった日本の物理、科学界を、短期間に西洋のレベルまで発展させ、日本を世界に認めさせる一翼を担った。 | ||
業績2. | 日本の物理学者をたくさん育てた。 | ||
業績3. | 地磁気・重力・地震などの地球物理学、測地学の基礎を築いた。 | ||
業績4. | 日本の航空技術を発展させた。 | ||
業績5. | 日本式ローマ字の研究と普及を行った。 | ||
業績6. | 度量衡(メートル法)を日本に導入した。 | ||
業績7. | 物理や科学を一般の人にも普及させる努力を続けた。 |
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.業績1 | 黎明期だった日本の物理、科学界を、短期間に西洋のレベルまで発展させ、日本を世界に認めさせる一翼を担った。 |
「日本には物理学が無かった」と言ったら、みなさんは信じられないかもしれないが、明治以前には、本当に無かったのである。ついでに言えば、学問としての音楽や絵も無かった。 明治時代、文明開化のかけ声のもと、お雇い外国人教師から、原語で学んだのがそのはじまりである。当時の日本は西洋科学に100年遅れていると言われた。日本語で勉強したくとも、訳すべき日本語が無い。原語を日本語に訳す為に、多くの用語が造語された時代である。その時代に愛橘博士は物理学を学び、発展させて行ったのである。 今からみれば、愛橘博士達が学んだことは、本当に基礎的なものであったという。まともな実験設備さえ無い状態で、ただ教わるまま、手探りのように日本の科学・物理学は始まった。また、外国語を日本語で表現し、教えるための苦労も随分あったらしい。 だが、30年後には西洋に追いつき、50年後には世界に肩を並べる発展を遂げた。 その間、博士は多くの人材を育てた。また、実に60以上もの国際会議に、日本代表として出席し、当時の著名な科学者達と交流をもった。愛橘博士は、欧米各国に、日本の存在を強く印象つけたのである。 博士は、渡航するたびに、欧米の最先端情報を日本に持ち帰り、これを広め、学問や技術の、多分野に渡って貢献した。時には、当時の最先端機械などを、海外から購入する役割も果たし、工業の発展にも力を貸した。 |
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業績2. | 地磁気・重力・地震などの地球物理学、測地学の基礎を築いた。 |
日本の地震研究は世界一だという。これは日本が地震国だから当たり前だろうか?。実はこの一見当たり前に見える地震研究も、愛橘博士から始まっている。 愛橘博士は、明治24年の濃尾大地震で、地震により地磁気が変化する事をつきとめた。TIMEの表紙にまでなったという、根尾谷の大断層の写真とともに、愛橘の地震研究は世界中から驚きを持って迎えられた。愛橘博士は、地震というものを学問としてとらえ、世界中に認められたのである。 また、この事は、日本人が独自の力で、物理学の一つの分野を切り開いたという点において、重要な意味を持つと思う。 濃尾大地震後、愛橘の提言により、地震による災害を軽減するための「震災予防調査会」が設置され、全国の地磁気測定などが行われる。これは、国家として地震の研究を行うと言う点でも、大きな意味があると思う。(この調査会は、現在の「地震予知連絡協議会」に続いている)愛橘博士は、「地震駆けつけ委員」として、全国各地を飛び回り、研究を行った。 ところで、水沢緯度観測所で緯度計測を行っていた木村栄の測定値が、他の国と比べて「誤差がある。日本の測定結果は信用できない」と指摘された。このとき測定値に確信のあった木村は、驚いて恩師の田中舘愛橘に相談をする。 愛橘は木村を信じて励まし続けた。木村は研究を続け、誤差の要因となる「Z項」を発見した。この知らせを受けた愛橘は、風邪で寝込んでいたが、すぐに夜行列車で水沢に飛んだ。水沢に着くと、休む間もなく確認をすすめ、木村の発見を評価。愛橘は発表の方策まで授けて、木村を支持し続けた。木村のZ項発見に世界は驚き、日本のレベルの高さに舌をまいたという。この事件にも愛橘は博士は深く関わっている。 愛橘博士は、日本全国の重力や地磁気の測定も行っている。まだ交通も不便な明治の時代に、日本中を調査しただけでも大変なことだが、博士の行った事が基礎となって、その後の変化がわかったり、後の研究成果へとつながっている。 |
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業績3. | 日本の航空技術を発展させた。 |
日本の航空は、ある意味戦争と共に発展している。当初は、飛行機など出来るとは思われず、気球の研究からスタートする。ところが、この気球の取り扱いが難しく、陸軍は愛橘博士に助力を請う。 やがて、陸軍と海軍が協力して「軍用気球研究会」を発足させるが、これにも博士は深く関わる事になる。日本で初めての飛行場を、所沢に選定したのも博士である。 だが、早急な実用を望む軍には、基礎研究の重要性を説く博士の言葉は無視された。 後に愛橘博士は「東大航空研究所(現在の東大先端研究所のルーツ)」を設立し、航空発展の基礎をつくり、日本の航空界を育て上げていく。東大航空研究所は、やがて「航研機」で世界記録を樹立するなど大いに発展していく。 ところで、日本で初の有人飛行にも、博士は深く関わっている。 フランス人のル・プリウール、海軍の相原中尉と共に愛橘はグライダーを作り、上野不忍池上空を見事に滑空させている。だが、飛んだのがフランス人だったためか、日本の初飛行として称えられることはなかった。 後に徳川大尉のエンジン付き機での飛行記録が、日本の初飛行とされている。この時も博士は関わっており、飛んでいる飛行機を車に飛び乗って追いかけたという。 |
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業績4. | 度量衡(メートル法)を日本に導入した。 |
調査中! | |
業績5. | 日本式ローマ字の研究と普及を行った。 |
博士は、田丸卓郎博士らと共に、日本式ローマ字を研究し、その普及につとめた。特に教授を辞任後は一層ローマ字研究に熱が入ったという。貴族院議員だった博士は、その給料の殆どを日本のローマ字社(明治42年1909年設立)のためににつぎ込んだという。 | |
業績6. | 日本の物理学者をたくさん育てた。 |
愛橘博士が東京大学の第一期生であることは、先にも書いたが、なにせ当時は日本人に教えられる日本人が少なかった。愛橘は正式に物理学を学び、卒業した初めての人でもある。愛橘が卒業するやいなや、山川教授は愛橘を助手として採用、このころ入学した長岡半太郎らに指導をする。やがて、留学なども経て、教授になり、一層人材育成に力を入れる。愛橘の弟子は、みなそれぞれに立派な仕事をしている。寺田寅彦なども愛橘博士と深く関わっている。 愛橘は地位や高給に甘んじることはなかった。60才の東大教授在位25年のお祝いの会で、「変化と進歩の早い科学・物理学界には、若い力こそ必要」と、あっさりその職を辞す。しかし、「航空研究所」だけは愛橘が居ないと進まないと山川総長に説得され、航空研究所だけは、これを引き受けたという。 極論をすれば、当時の日本の物理学の全てが愛橘博士の弟子、孫弟子なのである。博士は、弟子の為の協力を惜しまず、彼らの成長を喜んだという。 ちなみに、日本で初の文化勲章受章者は長岡半太郎(昭和2年)である。愛橘に関わりのあった、本多光太郎、木村栄(昭和12年)に対し、愛橘博士は(貴族院議員、地球物理学・航空学)として昭和19年4月29日に受賞している。(岩手県人初の受賞) |
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業績7. | 物理や科学を一般の人にも普及させる努力を続けた。 |
調査中! |