本番。テントが開かない!

そして、本番当日。午前には、音出しや合唱の合わせなどを優先したリハーサルが行われた。キャストはメークに入り、慌ただしく時間が流れて行った。舞台と楽器との音量のバランスが悪い。なかなか上手く行かず、音響の中田は一人で走りまわっていた。
そこへビデオを担いだ浪岡洋一が現れた。さっそく調整を手伝ってくれたが、どうしても楽器の音が大きすぎる。演奏者の足下で二人の必死の作業が続いた。

一方調光室では五日市が孤軍奮闘していた。これまでは会長との名コンビで照明をこなしていた彼女であったが、やはり一人では予想以上に勝手が違うらしく戸惑っていた。会館職員の方の応援も戴いたとはいえ、一人でそのプレッシャーに耐えていた。

気がつけば、既に開場の時間となっていた。あとは運を天に任せるしかない。リハーサルは十分とは言えなかったが、緞帳を降ろすしかなかった。舞台監督の菅原が脚本片手に確認にやってきた。「○場のきっかけは音楽で良いですね。合唱団の登場は・・。」
しかし、肝心の中村は既に放心状態といって良く、ろくな返事も出来ずに「舞台監督に全ておまかせします。」というのがやっとであった。

お客様が次第に入り始めた。中村は落ち着かないことおびただしく、気を取り直そうとタバコを吸いに楽屋へ入った。「おとーさん、キョンシーになっちゃった!」見れば、キヨ子役の理恵が真っ青な(死人の)メイクで笑っている。「後輩達がこの顔見て逃げるんだよー。」オーバーな怒りのポーズと屈託のない笑い声につられて、中村も笑った。

いつも元気で明るい理恵の一言で緊張がほぐれた。「うん。確かに怖い。それじゃぁ、赤ちゃんが泣き出すぞ。」「ひっど〜い」楽屋中が笑いに包まれた。それぞれが緊張を秘めながらも、相手の気持ちを思いやっている。中村の胸に何かがこみ上げてきた。「あ〜、腹減った。弁当食うぞ〜。」精一杯大きな声張り上げた中村は、無理矢理弁当を飲み込み、それからタバコを吸い機関車のように煙を吐き出した。

廊下ではすっかりメイクを済ませた役者達がセリフを繰り返している。目の前には愛橘が、美稲が蘇っていた。「宮さん。そろそろみんなに気合いを入れてやってくれ。裏の方もよろしく。じゃぁ、みんな頑張れよ」それぞれに握手をし、中村はステージ下に戻った。

インカムに向かって中村は叫んだ「本番15分前。みなさんよろしくお願いします。」「照明OKです」「舞台袖キャスト入りました」「ブタカン(舞台監督)さんよろしく」「頑張りましょう!」「音響さん?音響さん?」「聞こえてますよ〜」どんな時も変わらない中ちゃんの声。言外に落ち着けよと言ってるようだ。

ここから先はインカムの声だけが頼りだ。そして、音楽の先生達も位置に着いた。「10分前。アナウンス入ります。」「5分前。1ベル願います。」「では本ベル入ります。」
本ベルが鳴り、そして音楽が流れた。


「ぎゃぁ!緞帳が上がっちまった!」舞台上の邪魔畑任三郎は間が持たずに四苦八苦している。スモークも不十分で照明の効果も出ていない。30秒ほど音楽を流してから緞帳をあげるはずだった。いきなり失敗だ。だが、幕は上がってしまったのだ。

劇は進み、ライブでの音楽演奏も迫力があり効果満点だった。愛橘博士のお葬式の映像もなんとかタイミングが取れている。やっとペースを掴んだと中村が思ったその時だった。なぜか突然視力が低下してしまい、3番目の映像ファイルが探せない。いくら目を凝らしてもぼやけて見えないのだ。これでは映像は映せない。インカムに噛みつくように中村は叫んだ。

「ブタカンさん。トラブルだ。スクリーン飛ばして下さい!」「ダメです。次に暇泉がそこから登場です!」「うーん・・・。」「このまま行きましょう。次の映像は大丈夫ですか?」「わからん。見えないんだ。」「えーっ?」「とにかく何とかしてみる。最悪は次も映像無しです。」「了解。中村さん。落ち着いて下さい。」インカムの向こうでブタカンの菅原が頑張っている。落ち着け、落ち着くんだ中村。

結局2カ所の映像はあきらめたものの、劇そのものは順調に流れて行った。ところが「根尾谷断層」でのシーンへ繋ぐ暗転の最中に再びトラブルは起こった。
大道具が暗闇の中で必死になっている。愛橘博士達が天測時に用いたというテントのセットがいつまでたっても開かない。

ここで演奏するはずの音楽もきっかけを失い、舞台は暗転のまま先に進めなくなった。「どうしたんだ?ブタカンさん!」「テントの足がひもに絡んで開けないようです。今応援も出しました」「わかった。頑張ってください。連絡待ちます。」中村の額には汗が噴き出し、祈るような面もちで真っ暗な舞台を見つめていた。だが、一向に連絡は入らない。

もうダメだ。仕方ない。観客が騒ぎ出す前に照明を入れ、一度舞台を止めよう。中村が叫んだ「ブタカンさん。照明入れよう。ブタカンさん!」「OKです、たった今舞台出来ました」「ありがとう」まさに間一髪であった。「演奏OKです!演奏お願いします。」

だが、演奏は始まらなかった。暗転中のトラブルで指示が見えていない!。這うようにして演奏者の側へ駆け寄り中村は叫んだ。「演奏です。演奏!」そして音楽は流れ、何事も無かったかのように劇は続いた。

やがて舞台は、愛橘と妻キヨ子との死別のシーンへと移った。妻キヨ子は結婚一年後に娘美稲を産んだが、そのわずか10日後に亡くなっている。前半の山場である重要なシーンだが、そこには大きな心配が2つ伴っていた。
一つにはとても短いシーンで、妻を亡くした愛橘の悲しみを十分に伝える事ができるだろうかであり、もう一つは生まれたばかりの娘美稲を生後わずか3ヶ月の本物の赤ちゃんがやることだった。

実は大人の美稲役である吉田が、「この場面にはどうしても本物の赤ちゃんを出したい」と決心し、本番の3ヶ月も前に出産間近の知人に了解を取り付けていたのだった。
生後3ヶ月の赤ちゃんを舞台に出す事にずいぶん悩んだ中村だったが、吉田の劇に対する思いの深さに応えるべきと腹をくくった。たが、同時にそれはどう転ぶかわからない賭でもあった。

舞台に照明が入った。一瞬にしてキヨ子は瀕死の演技に入り、側に寄り添う愛橘の切なさが広がっていった。二人の鬼気迫る永訣の会話にみな息を飲んだ。赤ちゃんはまるで母の死の悲しみがわかるとでも言うように、じっとしていた。

やがて赤ん坊の美稲は愛橘に抱きかかえられたが、キヨ子が息絶えたとたんに手足をばたたとさせ声を上げたのだった。観客の間から驚きの声があがった。ゆっくりと照明が落ちていく。そして静かに永訣の曲が流れ、心をえぐった。かすかな光の中、別れの曲が終わった。
ふと見上げると、ピアノを弾いていた片野の頬に涙が光っていた。

ああ、上手く行った。二人の最高の演技と吉田の思いに救われた。そう思ったとたんに涙がぽろっと溢れた。「次の準備完了です。」インカムの向こうでブタカンの声が聞こえた。いかん。泣いてる場合じゃない。まだやっと半分なのだ。
「はい。頑張りましょう!」まるで自分に言い聞かせるように中村は答えた。


戻る