第8場(曲) 永訣{愛橘三十七才}
*M11・in ―――― 音楽8 喜び ―――――
美稲

明治24年7月、愛橘は理学博士となりました。東大教授として日本の物理学を教え導く立場です。一方で、地磁気測量の為に全国を駆け回っていた愛橘ももう37才でした。
明治26。年そろそろ身を固めようと、盛岡出身の本宿キヨ子と4月3日に結婚します。
愛橘はたった一人で盛岡の本宿の家に現れました。キヨ子に結婚を申し込んだ大学の博士というのが珍しかったのでしょう。顔には立派な髭をたくわえ、洋服をきちんと着て座ってる愛橘を、親類中の者が覗きこんでは驚きの声をあげたといいます。愛橘はただ黙って石のように座ったままでした。

  それから、母キヨ子との新婚生活が始まりました。この頃から目立ち始めた愛橘の白髪を、時々抜いてやるのが母の仕事でした。
「白髪などどうでも良い」と、うるさがる愛橘に、「いいえ、白髪を抜かなければ私がお母様にしかられます。」と言い張り、苦笑する愛橘の白髪をやさしく抜いていたと言います。
つつましやかな、けれど幸せな日々。やがて、母のお腹に私が宿ります。そして一年後、明治27年3月5日私はこの世に生まれました。

私の誕生を喜んだ父は、祖父稲蔵から稲の一字をもらい、美しい稲と書きました。
「田中館美稲」私はそう名付けられました。そして、その10日後・・。

愛橘 今戻った!。(下手声のみ)
乳母 ああ、旦那さまお急ぎ下さい。奥様が!。(下手へ迎えに走る)
愛橘 うむ。キヨはよほど悪いのか!。
乳母 先ほどから急に様子がおかしくなって、それでお知らせを。
愛橘 かたじけない。そうだ、赤ん坊は、美稲は大丈夫か。
乳母 とにかく、こちらへ、こちらへ!。
愛橘 キヨ、聞こえるか。(キヨ子臨終の床、枕元には生まれたばかりの美稲)

キヨ子 ・・・・・・
愛橘 キヨ子、気を確かにせんか!
キヨ子 あっ。・・・先生。
愛橘 (やさしく)大丈夫か、・・・どうなった。
キヨ子 申しわげありません。先生、申しわげ・・・。
愛橘 何を謝る。何も悪いごとしてねぇべ。
キヨ子 わだし……。この子に乳を飲ませでやれません。

愛橘 なあに、元気になればなんぼでも飲ませでやれる。はやぐ元気になれ。
キヨ子  (力無く首を振る。)
愛橘 そったら弱気でぁわがねぇ(ダメの意の方言)
早く元気さなって、まだ白髪ぬいでけろ。うん?
キヨ子 すみません・・。
愛橘 どうした?・・・・あんまりしゃべらねで休め。(キヨ子の涙に愛橘悟る)
キヨ子 (首を振る。)キヨは大学の博士さんのお嫁さんでしあわせでがんした・・。
(やがて寝ている美稲を抱き寄せ)お願い申します。どうか、この子が、美稲がおっきくなったら、やっぱり博士さんのお嫁さんにしてやってくだせ。 お願い申します。

愛橘 何を言う。美稲は生まれだばりだべ。お前が居なくて誰が育てる。
キヨ子 キヨはあなたさんのお嫁さんでしあわせ・・。
愛橘 キヨ、しっかりしろ!
乳母 奥様!、奥様!。大変だ、お医者様を、お医者様を!(走り去る)
キヨ子 (手を合わせ)・・・・お願い申します。美稲は学者さまのお嫁さんに……。
愛橘 わかった。もう何も言うな。必ず学者の嫁にしてやる。
 (美稲を抱き抱える)
 
わしが美稲を立派な娘に育ててやるすけ。何も心配するな。

キヨ子 ありがどございます。・・美稲を・・・お願い申します。美稲・・。(ガクリ)
愛橘 キヨ子!。(美稲を抱いたまま、上を向き涙をこらえる。)
・・・・・美稲。早く大きぐなれ。
・・・・おっきぐなって、母さんの分も白髪抜いでけろな。(やがてF.O.)
(音楽演奏メイン)――― 音楽 9 永訣)―――*M12・out
美稲 私が命を授かったその十日後、母キヨ子は天国へ旅立ちました。乳飲み子の私を残された父は、その後再婚する事はありませんでした。96才まで生きた父の人生の中で、たった一年の間だけが、母と父とに与えられた時間でした。
それから2ヶ月後、父は地磁気測量のために北海道へと長い旅に向かいます。北海道の空の下で、父は亡き妻を思い歌を残しています。
   「家思う 心移して 国のため つくせといいし 妹はいつくに」
(F・O)

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