日本式ローマ字の出始め
田中館愛橘博士が死ぬまでその普及に努めた「日本式ローマ字」。それがどんな風にして広められて行ったのか。黎明期の頃の様子が、博士が著した「TOKI WA UTURU」(時は移る)の中に書かれてある。ほぼ原文のママ紹介しよう。(下線は編者による)

日本式ローマ字の出始め

 日本式ローマ字のことを言うと、しぜん自分(愛橘博士)のことが出るので甚だ書きづらいけれども、せけんには全く間違って伝えられていることも、また全く無かった事を伝えているのもあるから、焼け残りの書きものをたどり、記憶にある体験をよび起こし、自分を問題のそとにおいて、いきさつの事実を書く。もし誤っているところがあったら、注意してくださるかたがあれば幸いである。

 日本式という名前は、明治38年(1905)田丸卓郎博士がつけた名前である。当時相応にこの式を使うものが多くなり、これを他の式と区別するため、なんとか名をつけることになり、日本語を書くにふさわしい、英語の英式、フランス語の仏式と同じ意味で、あたかも日本服日本料理というような極めて平凡な名前と思った。

 ところが、これを嫌う人たちは、国粋式だの排外式だのと難癖をつけるのは全く思いのほかである。もちろん、この式を使うものの中には国粋主義の人もあろうし、国際主義の人もあろう。これらはおのおの自分の好きな主義だと思っているかもしれない。

 

 日本式を実地にとなえ始めた人は、天文学教授寺尾寿(てらお・ひさし)である。そのいきさつをよくわからせるには、いきおい、明治のローマ字運動の起こりから書かなければ、なかみがよくわかるまいから、まずそれを書こう。

 明治のローマ字運動は、さきに言った通り、南部義籌(なんぶ・よしかず)や前島密(まえじま・ひそか)がした。それを国民教育にしようと書き方の案を具えて社会に呼びかけたのは、のちの学士会院長 西 周(にし・あまね)であった。

 この案は、わずかの取りのけのほか、殆ど今の日本式であった。して、明治7年に「明六雑誌」でこれを発表したが、社会運動としては、たいして広まらなかった。大槻文彦(おおつき・ふみひこ)は、引き続いて熱心に同じ事をとなえたが、やはり同様で、むなしく憤りなげくのみであった。

 ところが、その後明治16〜7年条約改正がさけばれ、政府もこれに乗り出したが、何といっても、わが文化の程度を西洋なみにしなければ許されそうもないので、すべて西洋風をとり入れて文化の見掛けだけでもつくらおうとし、舞踏会、音楽会、仮装会等をはやらせ、ハイカラ風を吹かせて、その付け焼き刃にあせった。

 「国史研究年表」に、「明治17年6月、鹿鳴館にて西洋舞踏練習始まる」とあるのは、よくこの事情を物語っている。若い娘たちのいやがるをだましたり、しかったり、お国のためだと言ってダンスのけいこに追い出した。音楽会はわたし(愛橘博士)も東大の仲間と一緒に出て歌った。調子も拍子もまるでしろうとを乗り越して、すっぱずれるのをよくまあ、公使や領事の婦人令嬢たちが吹き出さずに聞いていたと今思い出しても冷や汗が出る。

 ローマ字会はこんな風行きに乗って明治17年12月にできた。発頭人は東大の外山、矢田部、山川、チェンバーレンらであった。

 ところで、会にはいってくる者は、西や大槻などのように、ひとすじに国語国字の改良をめざす者と、条約改正をめがけ文化の目印にする政治的の意味の者とあった。

 前の方は、少しぐらい永くかかっても遠き将来のため、国語にふさわしい書き方をきめようとし、後の方はてっとりばやく実行されるものをとり、さし当たりの問題に役立てようとした。だから、後の方は政府の力にたよるところもあったろう。その勢いで地方の役人らにといたから、会員もぞろぞろ集まった。

 そこで、さっそくローマ字の書き方をきめて仕事を進めようと、その取り調べ委員をつくり、そのうちから原案委員を選んだ。焼け残りの「ローマ字雑誌」を見れば、外山正一(とやま・しょういち)、寺尾寿(てらお・ひさし)、B.H.チェンバーレン、C.S.エビー、神田及武(かんだ・ないぶ)、矢田部良吉(やたべ・りょうきち)の6人で、この委員の寺尾が持ち出した案は、まったく今の日本式と同じものであった。

 これに対し、これまであったヘボン式のよう(拗)音にちょっと手を入れたものが持ち出されて、5、6ぺん会して論じた。その終わりの会で寺尾が座長に押された。この時は、ヘボンとテヒョウを招待して意見を聞き、決をとったら2人は寺尾案に賛成、3人は反対で寺尾案は破れた。して委員はこの新しいヘボン式を採用し、明治18年6月機関雑誌「ローマ字雑誌」を出して世間に広めた。

 これに対し、反対意見の手紙がほうぼうから会へ来た。ケンブリッジにいた末松謙澄(すえまつ・けんちょう)は日本の新聞に意見を出したが、大体寺尾案に近いものであった。 

 ある日、東大の物理実験室でローマ字の話が出たとき、わたしはチェンバーレンから来た手紙の話をした。それはわたしが委員の決めた書き方に満足しないのをなだめて「文法の不規則は国語の恥にならないものだ」と説いたものであった。

 ところが寺尾がそこに居て、「私にもそれと全く同じ手紙が来た」と言った。これをそばで聞いた若い学生の中に深く感じたものがあって、いつ寄るとなしに5,6人の仲間ができ、それに文科の棚橋、辰巳、日高などが加わって、学生、卒業生10人あまりの仲間ができ、なんとかして綴り方を調べなおさせようと、会の幹部に話したが、いつもあごの先であしらうふうで、らちがあかないので、ひとつ動議を出して総会で決議させようといって、

議 案

 1.ローマ字を以て日本語を綴るに簡易単明を旨として、外国の用法に拘泥せざること。

 2.委員若干名を選挙して、前条の趣旨にもとづき原音の書き方を議定せしむること。

これに説明をつけて、差出人辰巳小次郎、芦野敬三郎、島田純一、和田義睦、棚橋一郎、日高真実、林田けい太郎、横井佐久、下山秀久、実吉益美、中原真三郎、田中館愛橘の名前で事務所へ行って幹部が集まっているところへ出した。

 その席には、外山、矢田部をはじめ、神田、高松等のほか、チェンバーレンも山川さんも居たが、「これでは会が仲間割れしていけないからやめろ」と説諭された。「仲間から言いつかったから差し出すほかない」と言えば、矢田部は「チェンバーレンさん、いかがでしょう?」というと、チェンバーレンは下を向いて「おいおい自由になりましょう」と言ったのは、たぶん勝手放題になって困るという意味らしかった。

 2,3日して、幹事の矢田部がわたしをつらまいて、「あのローマ字の動議をやめ給え」と高飛車に出たから、「仲間に対して出来ない」と言えば、「ひどい目に合わせるぞ!」とおどしたから、「ひどい目と言ったところで非職か免職ぐらいでしょう。是非ともやめさせようとするなら、わたしを暗殺でもするほかありますまい」と言って共に笑った。

  のちになって、彼は会津弁のこわいろで、「会員の出したのだから、総会へ持ち出すほかあるまい」と山川が言い張ると、幹部の内幕をうちあけた。

 そこで、われわれは数学物理学会と理学協会の雑誌に日本式で書いても良いことにしてこれらに論文を書いて出した。

 して、ついに理学協会雑誌をローマ字書きにしようという決議案を出し、その説明にヘボン式の不合理を論じた。明治18年(1885)。ヘボン式を非難するだけでは、ただ反対のための反対になるから、一通りのローマ字用法をつけて出そうと、それにとりかかってみれば、ことばの付け離しでぐっと行き詰まった。


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