日本式ローマ字の出始め5 |
田中館愛橘博士が死ぬまでその普及に努めた「日本式ローマ字」。それがどんな風にして広められて行ったのか。黎明期の頃の様子が、博士が著した「TOKI WA UTURU」(時は移る)の中に書かれてある。ほぼ原文のママ紹介しよう。(下線は編者による) |
日本式の国際発展 ローマ字の国際文字なことは言うまでもないが、天草時代のポルトガル式が立ち消えてのち、オランダ式が立ち上がった時は、すでに日本語の発音が、オランダの音と違うことを(書き)したため、書き方も国語にかなうようにした。明治になって国際電報がひらけ、外務省はじめ民間でも字数をへらすため、sh ch ts 等はたいてい使わなかった。 |
付け離しでおかしいことは、カナひとつにローマ字ふたつ書いて、ひとことばにして、大変な料金を払った者もあった。これと反対に、「はるさめは二つのことばだ、いや一つのことばだ」とワシントンの電話局と大使館といがみ合って、ついに、「それではすべて15字に切って出すから、そちらで勝手にお切りなさい」と言って、しばらくそれになっていた。 ところが、また、「日本語はすべて15字で出来ているか?妙な国語だ!もし勝手にそうするなら暗号電報の料金を取る」と言ってきたということである。こんなことは、つまり、日本人の立場で書いた文法が世界的に知れわたっていなかったからである。 |
第1回世界大戦のすぐあと、ロンドンのJapan Societyで、田丸の「ローマ字文の研究」のなかみを論じ、「Gremmar of Collquial Japanese」を紹介したとき、「これは日本人自身が、その国語の立場で書いたはじめての文法だ」と言って。若干の言語学者たちはたいていこれを賛成た。このなかに、さきに言ったパーマーも居た。 「Gremmar of Collquial Japanese」の序文にある、諸大家の手紙を見ればよくわかる。 わたしは、1946年3月14日に、教育使節団の団長 Stoddard教授に、時の日本ローマ字会長の資格で、かねて発表してあったおもな論文三つに手紙をつけて出したら、さっそく逢おうと言って、副団長格の Counts教授とともに親しく話し合ってこの論文の要点を説明した。 団長は「どうです!国民がこれについてきましょうか?」というから、「大丈夫ついて来ます。若い者のいきごみでたしかにわかります。年寄りはあてにしません!」と言ったら、「あなたは若い!」と言うから、「90です」と言えば「信ぜられない」などと笑い話しをして別れた。 |
偶然にも、これが使節団で国字問題を議するまえの日であったそうだ。上の話が参考されたかどうかわからないが、とにかく使節団の勧告は、「この機会をはずさず速やかに綴り方を国語に逢うように研究して、早く小学校へ入れるようになさい」と言ったので、文部省はさっそく委員を設けて、いわゆる文部省式をきめて発表したことは、すでに知れている通りである。これとて、だいたいはすでに6年間も審議してきめた訓令式にすぎない。 何事によらず、この複雑な世の中に、一般に行われるものにさわりなく一本筋に通るものは少ない。大掴みにみて、力学の最小作用(least action)の道行に従って進むほかあるまい。最小はただ一つでないことは前に注意した通りだが、大掴みに見た大道をふんで、できるだけ早く実行して教育の能率を高め、世界と文化を共にすべきである。 もっとも、今日は進歩改革が早川の流れ水のように変わる時代だから、文字もこの先どんなよいものが現れるか知れない。が、さしあたりしばらくはローマ字を利用するよりほかあるまい。上に165頁で言ったイエスベルセンの序文にもローマ字の欠点を散々こきおろしたうえ、・・・「だが、いま実行の望みあるものはローマ字のほかあるまい」と言って、その使い道に音素論を説き、終わりに日本式にも及んでその正しさを言っている。 ここでひとつ言っておきたいことは、文字は書く者より読む者は数万倍多いのだから、書き手の手数と読み手の便利をよくくらべてみることである。(完) |