日本式ローマ字の出始め4
田中館愛橘博士が死ぬまでその普及に努めた「日本式ローマ字」。それがどんな風にして広められて行ったのか。黎明期の頃の様子が、博士が著した「TOKI WA UTURU」(時は移る)の中に書かれてある。ほぼ原文のママ紹介しよう。(下線は編者による)

 割れても末に

この総会で日本式とヘボン式の色分けがはっきりついたように見えたが、それは見掛けのことで、採決に入らなかった人達の態度からもうかがわれる通り、いましばらくは別に別れても末には一緒に流れ合う運命は見すかされていたと思われる。

 日本式の仲間もこの年5月「ローマ字新誌」を出して「ローマ字雑誌」と競ったが、さきのハイカラ風が強すぎたと見えて、反動のローカラの国粋風が吹きまくり、えぼしひたたれでパリの町中を大手を振ってあるく者があったり、大隅さんの片足がぶっ取られられたりするようになり、ローマ字論など殆ど日陰者に落ちぶれ、「雑誌」も「新誌」も姿をひそめ、静かに考えこむ時代となった。

 

 いったい、まじめに物事の道筋を考える者は、科学でも政治でも、長いあいだ激しい反対論をしても、ゆっくり議論の節々を調べて親身に折り合うことは人間社会にめぐまれる自然の筋書きであろう。

 前世紀の終わり、マックス・ブランクは物質の連続性をとり、ボルツマンは不連続性をとり、しのぎを削って争っていたのが、今世紀の始め1900年にバッタリひっくり返って、プランクが有名な量子論をあらわし、互いにうちとけて喜びあったことは学会のうるわしい一つ話になっている。 

 不思議な縁故で、言語学のほうでも、この同じ世紀の変わり目で、発音主義と音素主義が気持ちよく折り合った。

 菊池大麓(きくち・だいろく)先生は、かたくヘボン式をとり、私が英国でケルビンについていた頃いろいろと心配して送られたヘボン式の手紙はまだ焼け残っている。この先生があたかもこの世紀から、日本のローマ字はつまり日本式になるとさとられて「ローマ字習字帳」に日本式で手本を書いた。

 沢柳政太郎(さわやなぎ・せいたろう)は、ひろめ会のあたまかぶでヘボン式を取り立てていたとき、たまたま、日本ローマ字会の年会で、H.E.パーマーが日本式の合理性を説いて自分もそれに改めた、と言ったことを聞かされて、目を丸くして、−−パーマーが!−−と驚き、それから日本式仲間の建議書にも進んで署名するようになった。

 チェンバレンとも、前いったとおり、議論はたびたびしたが、同僚としての付き合いには、ほかのヘボン式仲間も同様、何等わだかまるところ無かった

 国際連盟の知的協力委員会に出るようになってから、たびたびジェネバで合う機会があった。始めは、ローマ字はとうてい日本では行われまいと言っていたが、だんだん言語学界の進む様子がわかって来たらしかった。

 1932 VII月26日の手紙に、「さきだってはお訪ね下さってありがとう。わたしも伺うべきだが手術のあとがまだしっかりしないので失礼する」と書いてよこしたのが最後の訪れとなった。も一度親しく話したいと思っていたが、今になごり惜しい。


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