会報第50号(2012年7月発行)
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田中舘愛機会会報(平成24年7月15日発行-第50号(3)

没後60年祭に捧げられた祭文(要約)

※博士の生活に深く係わった経験を持つ方は、極めて少なくなっている現状と思われますが、小保内氏は「ジカに深く知っておられる」最後のお-人では?とも察しております。
 -博士に対しての切々たる敬愛・敬慕の念をおくみとり戴ければ----。


 本日、我が国物理学の創始者とも言われ、文化勲章受章者であられる田中舘博士の60年祭を執り行うに当たり、主催者を代表し謹んで祭文を奉呈申し上げます。

 -中略-- 今博士の墓前に立ちますと60数年前の色々なことが思い出されます。
 -博士は郷里に戻りますと、必ず毎日のように私の家の五右衛門風呂に通ってこられました。ぬるめの風呂にたっぷり時間をかけて入り、上がると常居で横になり、娘の美稲さんが身体をさすってあげるのが常でした。私は風呂の火を燃やす係もやりました。

 -中略- 博士がお亡くなりになる前年の9月の夕方、博士の家の前を通ったら書斎に明かりが付いていました。家に帰ると美稲さんがお見えになっており、そのことを言ったら、「ああ、お爺さんは調べることが-杯あるといってドイツ語の本を出して調べてるよ」と言われました。私は、「イ可才になっても学ぶことが大切なんだな」ということを教えられたような気持に強くさせられました。

 - 今から60年前の昭和27年5月21日、私は横浜の叔父の家に寄宿して学校に通っていました。突然父親から「博士が危篤だからすぐ行ってこい」と電話がありました。すぐさま、経堂の博士の自宅を訪ねることができました。玄関先に居ると運よく美稲さんが現れ「アヤー、よく来たこと、サア入って」と枕元に案内されました。
 博士は、酸素マスクをしていましたが、私をじっと見て、今にも何か話しかけたそうに思われました。夕方横浜に帰りましたが、ご逝去がニュースで報じられたことを知らされ頭をガンと叩かれたような気がしました。
人の命のはかなさに胸が痛くなり、もう少し博士のおそばにいてあげればよかったーと後悔しました。

 -中略- 博士がお亡くなりになる直前「50年後の夢」というエッセイを残されました。その終わりにこう述べています。「-今多くの国民が同じ人間たちを敵として戦うために、沢山の費用を掛けて軍備に励んでいる。これらを差し控えて、自然の敵なる地震雨風の大嵐や津波などに向かって戦いを挑み、これを征服したらどんなに世界が楽になるだろう-中略」と書き添えてあります。これは地震学者でもあられた博士の厳しい警告であり、遺言でもあったと思っております。
 -それから59年たった昨年3月11日、ご承知のように「東日本大震災」が発生し、尊い人命が多数奪われ、沿岸では壊滅的な損害を被りました。博士の警告にしたがって地震予知等にもっと真剣に取り組み、津波に強い街作りや防災対策を実施していたらーと残念でなりません。国民の生命財産を天災から守ることは、国家の責任でしてもらわなければーと強く思わずにはおられません。

 -中略- 四季折々の風景が望まれるここ夕照山の、ローマ字のお墓に神鎮まります
博士の御霊が、とこしえに平安でありますように、そして郷土の限りない発展と、戦争のない世界を、平和を、皆様と共に強くご祈念申し上げながら祭文と致します。

      平成24年5月21日  田中舘愛橘会  会長 小保内 岩吉
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